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当別院僧徒 教化活動レポート『思いは東北!』~第8章~


『思いは東北!』当別院僧侶が見た東北の11年後 追悼旅

第8章 どうなるのか、南三陸防災対策庁舎

◎南三陸町

私の東日本大震災 震災ボランティアの端緒は南三陸町での活動です。
2011年2月に心臓バイパス手術を受けました。阪神淡路大震災で活動が十分にできなかった私には、3月の東日本大震災の発生は体の自由が利かない、何のしようもない、やるせない気持ちを募らせていきます。
7月の検査の結果をふまえて、主治医に許可をもらって思いは東北です。
9月のお彼岸に併せて、花卉農家さんから提供していただいた10数樽の菊とともに出発です。
発災から半年後に見る被災地に唖然として言葉はでません。鉄筋3階建ての住宅の上に自動車が載っています。防災対策庁舎は鉄骨をさらけ出し、がれきが詰まっています。南三陸町を襲った津波は15.5m、行方不明者211名を含めて831名が犠牲となられました。実際の津波は公表以上だったかと思います。

震災復興祈念公園


南三陸町は、志津川町と歌津町が合併して出来た町です。
漁業が盛んで、震災では沿岸部の被災は顕著でした。役場は志津川にあり、役場も津波の被害を被っています。


◎震災復興祈念公園

震災復興祈念公園頂上です。
3年前には整備されていませんでした。

いま碧い海に祈る
  愛するあなたへ
    安らかなれと

八幡川

祈念碑に刻まれています。南三陸町最初のお声明を・・・

右の写真の左側、真ん中少し上に見えるのがさんさん商店街の一角です。
川は八幡川、この川を津波が遡って甚大な被害をもたらしました。
川の北側はさんさん商店街、反対側は祈念公園と防災対策庁舎です。



◎「南三陸町防災対策庁舎」

南三陸町防災対策庁舎

この写真は女性記者さんが撮ってくださいました。
震災から11年を迎えた3月11日の朝です。
背中から朝日が、顔の正面には竹灯籠の5本の灯が・・・

EXILEは南三陸に来て歌ってくれました 「Rising sun」

どんなに暗い闇でも 明けない夜はないと信じて…
どんなに長い道でも いつかはたどりつけるはず
確実にあるいていく この足で

素晴らしい応援歌です。
私のお声明、阿弥陀様とそのお浄土で仏様として生まれ変わられている犠牲者に届けんとばかりに、大きくなります。

予想される津波は5m、10mと、そして海に見えた津波は予想をはるかに超えていました。佐藤総務課長、遠藤未希さん、住民に「高台に避難してください」と叫び続けた。防災対策庁舎には30数人いましたが、慌てて3階建ての屋上に避難するも、建物を2mも上回る津波で助かったのはアンテナや柵にしがみついていた10数名でした。
佐藤課長や新婚の遠藤未希さんたちは津波の犠牲となられました。
どこの震災遺構でもその存続について、意見が分かれます。
防災対策庁舎でもそうでした。

「教訓を伝える」「見るのが辛い」・・・

どちらが正しいとはいえません。
一度は町議会で解体が決定しましたが、2015年に県の所有化となり、2031年まで解体の否かは先送りとなりました。
防災対策庁舎の周りは、3年前には約10mのかさ上げが行われていました。
位置がわからず、やっと屋上部分を見つけました。
今回は周りのかさ上げを整理し、庁舎の南側に山を作り、頂上には記念碑が建てられています。記念碑からは庁舎、志津川湾、さんさん商店街が見渡せます。
防災対策庁舎を訪れて、何か違和感を覚えます。
被災半年後の庁舎、鉄骨がむき出しでがれきが残っていました。
今回の庁舎、鉄骨はむき出しですが錆止めのためにペンキが塗られています。
がれきはもちろんありません。錆止めのペンキが赤く光っています。
存続させるのには仕方のない処置なのかもしれませんが、悲惨な姿を覚えている私には違和感を覚えます。

10日 南三陸町に到着、祈念公園が出来、3年前と変わっている情報をもっていましたので、翌朝の動線を確認、伸びてきた坊主頭に剃刀を…
そして、夜はさんさん商店街の駐車場での車中泊、少々寒く思いました。

11日早朝、防災対策庁舎でのお声明を終えて大川小学校に向かいます。


*乱文、誤字脱字をお許しください。
*犠牲者のデータは2022 年 3 月、原発避難者のデータは 2022 年 2 月のものです。
*レポートは自由にお使いください。
*追悼旅の実施にご理解、ご協力を賜りました方々に感謝申し上げます。