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当別院僧徒 教化活動レポート『思いは東北!』~第13章~

第13章  原発事故のその後(浪江町、双葉町、大熊町..)

5日に北上した国道6号線を、今度、12日は南下します。
まず最初に原発事故の被害地域等についてお話します。
原発事故について、専門家でもない私ですから間違っていることをお話するかもしれません。気になるところはご自身で確認をお願いします。また、数字的なお話も学者さんや研究家ではないのでふれません。

原発事故当初の避難区域を整理します。

警戒区域富岡町、大熊町、双葉町のそれぞれ全域
田村市、南相馬市、楢葉町、川内村、浪江町、葛尾村のそれぞれの一部
計画的避難区域浪江町、葛尾村の警戒区域を除いた区域
飯館村全域、南相馬市の警戒区域を除いた一部
川俣町の一部
緊急時避難準備区域 広野町、楢葉町、川内村および田村市と南相馬市の一部のうち、福島第一原子力発電所から半径20km圏内の地域

市町村名が読みづらいですが、下の地図と比較してください。

警戒区域のほうがよりリスクが多くなっています。
なかなか、地理的にわかりづらいと思いますが、原発の地元(双葉町、大熊町)を中心に周辺が警戒区域、警戒区域の外側で北西地域が計画的避難区域で、警戒区域の外側で計画的避難区域を除いた地域が緊急時避難準備区域となっています。北西地域については風の向きで原発事故による放出された放射能が飛び散るリスクが高いと考えられています。

続いて現在の状況についてお話します。
その呼び方も変わっているかと思いますが、緊急時避難準備区域は2013年12月に解除され、その後計画的避難区域も縮小されています。現在帰宅困難区域として残存するのは下の地図のとおりです。浪江町、双葉町と大熊町の多くと飯館村、葛尾村と南相馬市の一部が帰宅困難区域として残っています。そして帰宅困難区域の一部でも、2022年の春から避難指示が解除されます。
*レポートを書いている2022年4月上旬には、解除情報はありません。
一部解除予定地域(特定復興再生拠点区域)は大熊町の面積の1割、住民登録の6割の地域で、2021年12月より住民が自宅で過ごせる「準備宿泊」が始まっています。
もう一つ情報が。2022年4月11日から富岡町の一部地域でも準備宿泊が始まりました。
ここで気になることを..    除染作業を進めて放射線量が下がったから、規制を緩和したとの政府の発表があります。しかし放射線量による生活の可否の基準と地域の残存放射線量に関する発表がありません。今はこれだけだから、帰宅しても大丈夫ですと説明してください。本当に大丈夫ですか?
新聞等の報道はないようです。見逃していたならすみません。

福島県を南北に縦断する国道6号線沿いには、このように桜が植えられています。
❝ふくしま浜街道・桜プロジェクト❞
各地からの寄付で苗木が植えられ、メッセージが添えられています。
3年前の苗木は、今では2~3mに育っています。

国道6号線沿い、浪江町にある元結婚式場です。
そして、その前の歩道にある看板です。
2016年5月訪問時には、「がんばろう浪江町」の横断幕が掲げられていました。今は原発関係かな、建設会社になっています。

元結婚式場を撮影した場所は、避難指示が解除された場所です。
すぐ近くにコンビニがあります。昼食時に立ち寄りましたが、お客さんは作業員ばかりです。解除されたとはいっても、住民より原発関係従事者のほうが多く住んでいるともいわれます。

浪江町にある作業員用のホテルです。
1階は原発関係会社の事務所のようです。
このように、福島第一原発から少し離れた町にはこのようなホテルなどが数多く存在しています。

さて今から帰宅困難区域に入ります。
すれ違うパトカーが多くなってきます。そして空き家となった家屋に立ち入りする警察官が確認されます。

双葉町に入ります。
双葉町役場周辺は日中だけなのか、平静な状況です。
第一原発に近づいてくると、時間制限でゲートが解放されたりしています。
国道6号線の西側です。

上の写真の近くですが、奥に住居が見えます。
ここのバリケードは閉まったまんまです。
これは国道6号線の東側です。
この先を南下すると第一原発がさらに近づいてきます。

黒いプレコンバックが見えてきました。
放射能による汚染土が詰め込まれています。
第1章で、 野馬追が描かれていた白い塀の向こうには汚染土がありました。
除染作業が進んだのかな、プレコンバック、外されて土がもってあります..と書いてあります。
ここは黒いプレコンバックのままです。除染処理が進んでいないのでしょうか。

道路標識ですが、見にくいですが「福島第一原子力発電所」となっています。第一原発は国道6号線から左折しますが、交差点には検問所があり、通行が制限されています。

黒いプレコンバックの汚染土が置かれている先に、タワークレーンが小さく写っています。福島第一原子力発電所です。海岸に面しています。
第一原発の周りは、中間貯蔵施設用地となっています。

汚染土の処理について、今一つ理解が出来ていません。
汚染土の9割は処理が終わっていると聞こえてきます。この処理は何をしたのでしょうか?  おそらく土壌洗浄して残留放射線を低減させているのでしょう。そしたらその先は? 土壌洗浄した汚染土のうえから、汚染されていない土で30cm覆うことにより放射能は98%さえぎられます。さらに盛土をすることにより農地として再利用が可能との見解のようです。
南相馬市での白い塀の先、土壌洗浄を終えて次の段階に入っていたのでしょうか。

双葉町・大熊町の中間貯蔵施設にある汚染土はどうなるのでしょう。
福島県の汚染土の総量は約1,650万㎥と聞こえ、約8割を再利用する方針であるとか。約2割が最終処分の対象となると聞こえてきます。
環境省のサイトを見てみます。
サイトからの取り込みができませんでしたので、以下のように整理します。

双葉町、大熊町の中間貯蔵施設で保管されている汚染土は、福島県外の汚染土以上に除染処理の上、減容化され、さらに濃縮等されて県外の屋外処分場に搬出されると理解します。環境省のチャートでは福島県内は全て、中間貯蔵施設に保管となっています。南相馬市は福島県最北部です。第1章で野馬追が描かれた白い塀の向こうに汚染土があると書きました。以前、ここの汚染土は黒いプレコンバックに詰められ、緑のシートがかけられていました。今はプレコンもシートもなく、盛っています。
中間貯蔵施設搬入なら、プレコンを外す理由はないかと思います。そのまま中間貯蔵施設に搬入して、保管すればいいわけですから。しかし、福島県内でも土壌洗浄後、放射線量が低減された土は再利用、残量の多い土は中間貯蔵施設への運搬に振り分けされると理解するのでしょうか。
そう考えると、前述の約8割を再利用の方針、約2割を最終処分の対象となると聞こえてくることと、なんとなくつじつまが合いそうに思います。

福島県内の汚染土を再利用、最終処分に振り分けると考えると、以下のとおりです。

このようになるかと思います。

2022年4月20日の読売新聞の社説です。
「3月末までに中間貯蔵施設に搬入する作業はほぼ完了した。その量は1,200万㎥である。法律で2045年までに最終処分が義務付けされている..」と続きます。
そして、「国は最終処分に向けての作業方法、工程、最終処分施設選定作業等の工程表を策定し、その道筋を明確にすべきだ」としています。

環境庁のサイトを確認すると、最終処分方法はこれからの技術開発をふまえてとあり、かつ県外の最終処分施設も決まっていなくて、不透明な表現となっています。1つ前の図の注1のところです。「30年以内に..」とされています。
科学者の考えは、将来に問題が生じることを把握してても、問題が生じるまでの時間で技術開発が進むだろうからと、問題を先送りするって聞いたことがあります。
国も同じようなことを考えています。間違っていたらごめんなさい。

原発事故の問題は、帰宅困難地域の可能な限りの縮小、汚染土の最終処分、そして原子炉の廃炉がなされての最終ゴールかと思います。
全て元の状態には戻りませんが、早く最終ゴールにたどり着いてもらいたいと思います。
「間違っているよ」とのご意見がありますれば、お知らせくだされは幸いです。

*汚染土についての総量と中間処理施設への搬入量等について、読売新聞と私が把握した数字とに違いがあります。
中間処理施設への搬入量1,200万㎥(読売新聞)と総量1,650万㎥、8割が再利用、2割が最終処分(私が把握した数字)には齟齬があります。
考えれば考えるほど、情報を集めれば集めるほど混乱してしまいます。
的確なご意見がありますれば、ご教示ください。
汚染土の総量等についてはグレーにしておかざるを得ません。

「浪江町にある作業員用のホテルです。1階は原発関係会社の事務所のようです」と説明をした写真がありましたが、その写真の右端に少し写っているダンプカーです。
荷台に「中間貯蔵輸送車両 ペースカー」と緑のシールが貼ってあります。
ダンプは汚れていないので、汚染土を運ぶことなく先導しているのでしょう。
土壌洗浄後でも、放射線残量の多い土を中間処理施設への運搬車の先導をするのでしょうか?
「いわ」と見えるのは、いわき市の登録車を表しています。ほかには青森もありました。黒いプレコンバックが確認されたことろで、汚染土の話に入ってしまいました。

福島第一原発は双葉町と大熊町にまたがってあります。
福島第一原発を通り越しても、まだ大熊町を抜けていません。
国道6号線沿いの商業施設です。
ある意味、一等地ですが、被災したまんまの姿です。
向かい側には、コンビニ跡があり、賃貸物件の看板がかかっています。

大熊町をさらに南下、富岡町と楢葉町までが緊急時避難準備区域でしたが、楢葉町は全町、富岡町の一部を除いて解除されています。そしてその富岡町の一部についても、帰宅に向けての準備宿泊が始まりました。

原発事故避難者数の推移を確認してみます。一番多いとされている2012年5月は164,865名、直近の2022年2月は33,365名となっています。約2割に減少ですが、少し納得していません。住民票を避難先等に移した人は8割に含まれているかと思います。子育て世代では避難先での生活の定着に伴い、故郷に帰ることを断念して仕方なく住民票を異動させます。故郷に帰りたくても、現実は帰れません。
避難解除に応じての帰宅者、帰宅をあきらめていない人の多くは高齢者です。
まだまだこの問題が解消されたわけではありません。

自分の目で直接確認できるのは、こうして国道6号線を走ることによって帰宅困難地域の現状や放射能汚染土の保管状況です。一部ですが..。
原発炉等については、映像を通じてしかありません。
福島台地原子力発電所の敷地96%では、防護服なしで歩けるようになっているとのことです。住民は立ち入ったようです。

本章では、原発被害地域や放射能汚染土の問題を行ったり来たりして、整理が悪くて申し訳ありません。
また、汚染土の総量、再利用、中間処理施設への搬入量、最終処分量等について、ニュースソースによって温度差があり、統一したお話が出来ずに申し訳ありません。ただ、処理が進んでいることは間違いはありません。ご理解ください。

さて3月12日、国道6号線を南下して、常磐道いわき湯本ICで一般道にお別れをして関西に戻ります。
12日は名神大津SAで車中泊、13日 本山での帰還報告、京都駅前でのお勉強を終えての帰宅は19時を回っていました。こうして今回の東北追悼旅は終了しました。序章に書いたように、10日間 走行距離2,600kmのおわりです。